むしゃくしゃしてやった

痛々しい話やらサークル「ふざんのくも、みだれとぶ」の告知やらします

憲法なんぞ変えずとも 社会の空気はいつか来た道

このブログ、書くぞ書くぞと息巻きつつ、9年ほど塩漬けにしていたらしい。

ウイスキーのごとく熟成された深みが出るかとも思ったが、記事が一本もないので、0に何を掛けてもゼロのままだな。

 

 さて、社会が息苦しい。大変息苦しい。

 「自粛警察」なるものがのさばり、開いている飲食店に善意のメッセージを送り、他県ナンバーの車に善意の張り紙をし、患者の家に優しく石を投げる。おお、はだしのゲンに書いてあった戦前の世界ではないか!

 平和団体がよく使う言葉に「いつか来た道に戻すな」みたいな話があるが、あろうことか、憲法を改正せずともすっかり空気は75年前に戻りつつある。自粛に従わぬ者は、収入源が絶たれようと非国民である。マスクをせぬ人間は罵声を浴びせられる(これはマナーの問題であるが、所詮は「マナー」なのだ)。近いうちに、マスクがないので店に入れず、マスクを買えない、という冗談みたいな事象すら起きるのではないだろうか?

 ちなみに私は鼻炎持ちなので、春夏秋冬くしゃみを強いられているのだが、最近は睨みつけられることもある。助けてくれ。本当は物陰でしたいのだが、間に合わない時もあるんだ…。

 なんせ、世間の空気ばかりは政府のせいではない。全ての人間が自粛に耐えうるだけの経済的余裕を持ち合わせている訳でもなし、親の介護など必要火急の用事を抱えている人間もそれなりにいる。憲兵がごとき「自粛警察」サマは、そういうことも想像できない狭量な人間なんだなと思う次第である。

 ウイルスは確かに命の危機をもたらすが、勤め先を失い社会のレールから外れ、みじめな人生を送りかねない危機感とどちらがマシかという話だ。命あれば…という問題ではない。病死でも将来をはかなんだ自殺でも、人一人が死ぬのは変わりないではないか。「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を地で行く展開である。もちろん、ウイルスによる死が「統計上の数字」になる事態にはなって欲しくないが。

 

 結局は、もうちょっと他人の生活に想像力をめぐらせようよ、ということを言いたいのだ。随分長い前置きから、ごく当たり前の締めになってしまい申し訳ない。

 

 書き物のリハビリを兼ねて、これからたまに筆を執ることになろう。よろしく。